散散歩歩。(436)アイラブユー・ほたえてくれ!みゆきさーん。(131)

みゆきさんの白目は絶品である。

それについては、以前にブログに書いたことがある。

でも、迂闊にもあることを見逃していたのです。

それは、みゆきさんの白目があまりにも美しいせいだったのかもしれない。
白目しか見ていなかった。

でも、目というものの近くにありながら、その白目をさらに引き立たせているものを見落としていたのです。

まゆ毛。

みゆきさんのまゆ毛は、ある時は凛々しく、ある時は切なく、またある時は艶っぽく。
そのステージの登場人物に合わせて、その訴える表情が変わる。

こんな美しいまゆ毛の女性を凡は今までに見たことがない。

そもそも、まゆ毛という顔面に生えている毛というものは、あえてそこに存在させなければならない理由はない。

まゆ毛は、無くて良いものだ。

しかし、人間にはまゆ毛がある。

その存在の意味を説明する人は、汗や異物が目に入らない為の器官だという。

凡は進化論を否定している。
進化論で今の人間にまで到達する過程を説明することは不可能だ。

それでも、まつげなら、頷ける。
進化論なんて知らなくても、感覚的にホコリなどの異物が目に入らないようにしているんだなと感じられる。

しかし、まゆ毛はどうだ。

汗などの異物が入らないようにというなら、こんな一文字の線じゃなくて、額全部がまゆ毛であってもおかしくない筈だ。

その方が汗や異物を防ぐ上で、強力だ。

でも、額には毛がない。

毛が生えていないのは額だけじゃない。
顔にはほとんど毛が生えていないのです。

生物が生きていく上で、顔には毛が生えていた方が良い。

女性の1番気になる紫外線だって、毛があった方が影響は少ないし、皮膚ガンなどの病気にもなりにくい。

なので、理屈からいうと顔に毛は必要なものだ。

なのだけれど、人間の顔には毛がないのである。

薄い皮膚が剥き出しだ。

思えば神様も、けったいな仕掛けをしてくれたものだ。
何かの目的というか、何かをさせるために、わざと人間の顔を素っ裸にした。

その理由を考えるに、毛がない方が便利であるからだと思う。

何に対して便利なのか。

自分のこころや体の状態を、他人に見せるためだ。

向かい合った2人は、それぞれの相手の顔の皮膚の色や、皺のいきかたなどを見て、相手の気持ちを察するのである。

少し皮膚が赤くなったから、凡に惚れてるのじゃないだろうかとか。
青白い顔の色だから、病気なんじゃないだろうかとか。
眉間に皺がよっているから、難しいことを考えている振りをしているなとかね。

素っ裸の皮膚だけの顔は、相手に、自分の表現したい気持ちや、或いは隠したい気持ちを、意図する、しないにかかわらず、勝手に相手に伝えてしまうものである。

でも、顔に毛が生えていたら、そんな表情を見て察すると言うことはできない。

つまりは、顔に毛が生えていないという事は、人の心を察するという優しさ、そして自分のこころを見せたくないという臆病さを、人間に与えるために、神様なりの人間に対する工夫というか神様のゲームなのかもしれない。

神様も上の世界から、その人間の表情を見て笑っているのだろうか。

これを最大限に利用出来るのが男女関係であって、恋の駆け引きをするための小道具を与えてくれたのかもしれない。

そして、その小道具である顔の皮膚を最大限に駆使できる人が、みゆきさんであるともいえる。

見ている人すべからく虜にしてしまう技。

そして、まゆ毛は、その表情をさらに演出する顔の中の名脇役と言ったところか。
もちろん主役は白目である。

しかし、脇役と言っても誰でもがなれる訳じゃない。
これは、まゆ毛じゃなきゃつとまらない大切な役なのである。

だって、鼻でこころを伝えられるかっていうと難しいだろう。
じゃ、口ならどうかというと、鼻よりは動かし安いけれど、そんなに口をパクパク動かすのも恥ずかしい。

ここはやっぱりまゆ毛じゃなきゃならないのであります。

そして、そのまゆ毛を自在に操ることができるのが、みゆきさんだ。

みゆきさんなら、まゆ毛をほんの1ミリ動かすだけで、嬉しさ、寂しさ、怒り、切なさ、どんな表情でも作ることがで
きる。

小悪魔だ。

ただ、みゆきさんのような小悪魔なら、いつまでもいつまでも、そのイタズラに翻弄され続けてもいい。

夜会などのDVDを見ても、そこには何十何百ものみゆきさんがステージに立っている。
そして、そのどれもが素敵なんだなあ。

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特に凡が好きなのが、眉尻を下げたまゆ毛だ。

みゆきさんの八の字になったまゆ毛。
これは絶品中の絶品である。

普通の人が、この八の字のまゆ毛にしたらなら、「トホホ」という心の感嘆詞がつく顔になる。

それは美とはほど遠い、情けない表情だ。
それを見て感じるのは同情と哀れみと蔑みぐらいなものだ。

実に悲しい。

それがである。
それが、みゆきさんの手に掛かると、というか、みゆきさんのまゆ毛に掛かると、まったく別の表情になる。

みている者を魅了する表情。

ある時は、「しっかし、バカだね。あたしって。」って感じの、開き直った笑顔だったり、

ある時は、「なんで、こんなアホな女が生まれきたんやろ。」っていうような女性の性を受け入れたときの諦めの表情だったり、

どんな場合の八の字でも、すごく魅力的なんだ。

そこには、共通して「美しさ」が、その表情の底に流れている。

本来ならマイナスなイメージの八の字を、美しいという輝きに変えてしまう。

やっぱり、これは、小悪魔というより、美と愛の女神ビーナスだ。

貝殻の上に立った全裸のビーナス。
そう、みゆきビーナス。

でも、やだ。
全裸だなんて、ウヒヒヒヒ。

ってね、もう凡と言う人間は何という下品でありましょうか。
喜び方まで、気持ち悪いのであります。

それにしても、凡の敬愛する岡本太郎さんも、目を意識した作品は描いているように思うけれど、眉毛を強調した作品は、知らない。

とはいうものの、凡は岡本太郎さんの考え方生き方が大好きな訳で、絵についてはまったくの素人でありますが。

岡本太郎さんは、美を追求するのにじっとその対象を凝視して、その中にある美を探ろうとしたのじゃないかと思う。
それには、目が必要であり、目と言う体の器官に興味を持たれたのではないだろうか。

それに比べて、眉毛と言うのは、それ自体何もしない。
ただ、目の上の空間に、とぼけたように、或いは、ひょうきんに乗っかっているだけだ。

だから、岡本太郎さんも、眉毛に目を向けなかったに違いない。

惜しい。

もし、岡本太郎さんが、みゆきさんのまゆ毛の美しさに気が付いていたなら、取りつかれたように、まゆ毛の絵を描き続けていたはずだ。

そして「無意味な美」というものを発見していただろう。
或いは、「余裕の美」とも言える。

真実の美であるとか、究極の美であるとか、そんな探究をも笑い飛ばすような。
すっとぼけた、何となくというあり方の、可笑しみのある美というものもあるのだということに気づいて、歌でも歌いながら絵を描くようになっていたかもしれないと思う。

そして、みゆきさんだ。

その美しいまゆ毛は、どうにも愛おしい。

そして、思う。

みゆきさんと出会うのが、平安時代でなくて良かったということ。

もし、平安時代に、みゆきさんに出会ってたなら、まゆ毛を引っこ抜いて、その上の額のとんでもないところに楕円形の眉を墨で描いたみゆきさんと出会うことになる。

みゆきさんなら何でもいいという凡でも、会えば笑ってしまうだろう。

やっぱり、現代に出会ったからこそ、みゆきさんのまゆ毛から、無意味な美を知ることができたのである。

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