散散歩歩。(500)無償の愛。

1週間ぐらい前だろうか、ベランダからバタバタバタという音がして何かが動いているんです。

見るとハトだ。

それから何度かそんなハトが羽ばたく音と気配がするので、注意をもって見ていると、何度もベランダに舞い降りては、また飛び立ってゆくのです。
そして更に見ていると、最近になって飛んでくるときは木の枝をくわえて飛んできていることが分った。

巣作りをしようとしているのかなと、そのときは深くは考えずにいた。

それで、12日である。

ハトの鳴き声がするのでベランダに出てみると、凡とお隣さんの間の排水のところにハトがうずくまっているのです。

何をしているんだろうと近寄っても逃げる素振りもありません。
更に近くまで行っても、凡を見てはいるものの、びくりともせずにうずくまっているのです。

画像


玉子を温めていたんですね。
まさかベランダでハトが玉子を温めることになるとは、1週間前には想像もしなかった。

それにしても、その姿は、ハトではあるけれども子供を守る母親そのものであります。

母は強し。
その強さはどこから来るのだろうかと思う。

或いは、動物的な習性で何も考えてはいないのかもしれない。

ハトに愛という感情があるのかどうなのかは、分らない。

でも、母親としての習性と愛の中間のような感覚というかハトの思考パターンがあるのではないかと思う。

ここで少しばかり話がそれてしまうが、この母親の姿を見て、凡は無償の愛という言葉を思い出した。

無償の愛とは、見返りを求めない愛ということだ。

ということは、それ以外の愛は、見返りを求める愛だということになる。

では、どんな見返りかというと、或いはお金だと言う人がいるかもしれない。
でも、そういう見返りについては、ここでは置いておこう。
何故なら、そういう場合は、その元の愛と言っているものは、実体は愛ではなくて、打算や取引というものと同じような性格のものであるからだ。

少なくとも愛と呼ばれるものについて 考えるなら、その見返りは愛である。

人は誰かを愛するときは、相手が自分を愛してくれることを求める。
或いは、人に愛されたいが為に、人を愛するということもあるのかもしれない。

凡でも普段は、片想いも立派な愛であると、岡本太郎さんの言葉.を引っ張ってきて、相手に愛されてなくても、その人を愛することの素晴らしさを、叫んでいるのでありますが、それはそれで満足だと言っている訳じゃない。

凡だって、みゆきさんに愛されたいのであります。
でも、それが叶わないから、片想いでも、好きだって叫んでるだけなのです。
できることなら、みゆきさんの耳元で「好きだよ。」って囁きたいよ。

しかし、そう考えると、見返りを求める愛の方が人間として自然であって、それが叶わない時でも、それによってその時の、やり場のない寂しさや嫉妬の気持ちや絶望を、自分のこころの中で騙して納得させる理論構築をする作業は、人をして哲学的思索を展開させることになる訳で、それは人生の妙味を得さしめ、文化を円熟させるものであるとうい点では、見返りを求める愛の方が上等な愛だという事ができる。

言葉の響きだけでイメージするなら、無償の愛の方が、素晴らしいものであると錯覚してしまいそうである。

そんな無償の愛というものは、どんなものだろうか。

愛おしく思って、尽くすけれども、ハイそれで終わり。
そんな愛があるのだろうか。

何か冷静で、何か他人事のようだ。

胸をかきむしられるような切ない思い。
それが愛の元だと思うんだ。
そして、その元は欲から発生していると思う。
相手が欲しいという欲。

凡は、みゆきさんを愛していると書くことは少ない。
大概は、みゆきさんに恋していると意図的に書いているつもりだ。

それは、凡がみゆきさんを好きだっていう気持ちは、凡の欲から来ているからである。
愛なんて、そんな綺麗なものじゃない。
胸をかきむしられるような、みゆきさんへの思いは、欲と執着そのものだ。

なので、愛よりも更に自分勝手な欲望むき出しの「恋している」と書くとことが多い。

凡は、無償の愛というのは、本当に愛していない愛だと思う。
少なくとも、欲から発生している愛ではない。

或いは、それは親が子を思うような愛なのかもしれない。
ベランダのハトが玉子を必死で守ろうとしている愛のようなもの。

ただ、親の愛にしても、相手の愛を見返りに求めていないようにも思えるが、その愛がこころの奥底で変化した「従順」という見返りを求めているようにも見ることが出来るのではないかと凡は考える。

そうだったら、親の愛も、何かしらの見返りを求めていることになる。

そんなことを考えると、ベランダのハトの玉子を守る愛は、人間の親の愛よりも遥かに無償であるといえる。

ハトたちには、そこまでヒネクレタ思考はないであろうから。

ハトの子を思う愛というものは、凡の感覚では、半分は愛と言うこころの動きであり、半分は動物的な習性であるので、詰まるところ、無償の愛は動物的な習性に近いものということが言えるのかもしれない。

という事になれば、何も考えないでする行為、それが愛だとは自覚しないいでする行為、もっと突き詰めれば、愛さないでする行為が、即ち、無償の愛だと言えるのではないだろうか。

ただ、ここで無償の愛という言葉の、愛という意味を一般的に使われている「愛する」という意味であーだこーだ言ったのでありますが、この無償の愛という言葉には、キリスト教的な愛という意味が多分に含まれている。

そういう意味では、この愛は、仏教的な意味合いを持つ慈悲という言葉に置き換えたほうが、無償の愛に近いものになるだろうと思う。

ただ、そうなると、対等な立場でいられる見返りを求める愛に比べて、そこに上下、優劣の立場の違いが発生する慈悲ニアリーイコールの無償の愛が、つまらないものに見えてくるのは、ヒネクレタ凡だけなのでありましょうか。

ただこれ以上、またあーだこーだと言い出すと話がズレ過ぎて、訳の分からないことになってしまうし、それでなくても既にグダグダになってしまってるので、愛の話はここで止めて、一服しましょうか。

兎に角であります。
誰かこの凡を、見返りを求められる愛でも、無償の愛でもいいから、愛してはくれないものかなと願うのであります。

それにしても、ハトはベランダで子供を産むのだろうか。

嬉しいような、困ったような。


"散散歩歩。(500)無償の愛。" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント
ごめんなさい。
(ぺこり)

各記事の下部にあります
アマゾンの「キンドル版 凡蔵。おすすめ選書」ですが、
現在、リンクは中止しております。

「悩み多きブッダたち」

「アルカディアのレフュジー」
(中島みゆきさんの影をさがして)

は、販売中止しました。

買っていただいた方には、
本当に、お礼を申し上げます。
ありがとうございました。