散散歩歩。(284)アイラブユー・ほたえてくれ!みゆきさーん。(50)
どうも人間という生き物は、線を引きたがるもののようでありまして。
善と悪。
天国と地獄。
男と女。
あっちとこっち、、、、などなど。
東京国立博物館を出て、冷たい風に吹かれながら、上野駅に向かって歩いていると、国立西洋美術館があった。
その入り口の前の庭に、数点のロダンの彫刻が置かれている。
タダで見れる。
そうタダなので、見てみることにした。
「地獄の門」
ダンテの神曲をモチーフに製作されたブロンズの扉だ。
ただ、制作しているうちに、神曲色は薄れていったようですが、詳しいことは凡は分らないので、ここではちょっとおいておこう。
とはいうものの、その浮彫は扉全体に地獄の様子を表現していて、美術を知らない凡でさえ、生々しいロダンの想像の地獄の世界を見る物にダイレクトに感じさせる。
扉全体に描かれている地獄の模様を見ている扉の上部に置かれた「考える人」は、何を考えているのだろうね。
ただ単に地獄に堕ちる人を、悲しみでもって見ているのか、その救済方法を考えているのか、考えているだけじゃ何も始まらない。
止まったままだ。
それじゃ、凡と変わらない。
考えるだけの、見ているだけの、ぼく。
ただ、凡の場合は、考えているフリ。
それにしても、地獄の門なんて、名前だけで怖そうだ。
モチーフになった神曲では、地獄の入り口として、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という銘文で有名だそうです。
この門をくぐると地獄。
怖い。
そんな、怖い門を、どうして作ったんだろう。
そんなの作っちゃいやだ。
やだ、やだ。
とはいうものの、門があれば開けてみたいというのは、どうだろう、誰でもが思うのではないだろうか。
凡は絶対に開けてみたい。
全開は、怖いけれど、ちょっとだけ隙間を開けて覗きたい。
覗き趣味、、、、ピーピング凡。
とはいうものの凡は、線を引くという事をしない。
線を引くという事はね、これは、どこまで行ったって終わらない、虚しい行為なんだ。
何かを分け隔てるつもりで引いているのかもしれないけれど、引いた瞬間に、また分け隔てなきゃいけない空間が出来上がる。
1枚の画用紙の右と左を分けるつもりでさ、真ん中で切り裂いてもね、切り裂いたその半分の画用紙にも右と左が出来上がる。
なんど切り裂いても、わけられるもんじゃない。
この門をくぐると地獄だといっても、それじゃ、この扉のこっち側は、天国かっていうと、そうでもないのでありまして。
門のこっち側だって、どこかで、誰かが、どこでも、誰でも、苦しんで生きている。
戦争なんて、地獄そのものじゃないか。
門でもって、線を引いたと安心しても無駄な話だ。
それにね、門の向こう側だってね、線を引いた瞬間に、地獄の中に、天国と地獄が生じるのであります。
地獄の住人にしてみれば、天国のようなところと、地獄のようなところが生まれる。
だから、線を引く行為なんて無駄な話なのである。
すべては、連続体なのであると、凡は思う。
とはいうものの、この線という行為は、人間のこころを安定させるものであるようで、色んな人が、線を引こうと無駄な苦労をしているのであります。
その線の象徴が、門であり扉である。
そして、引かれた線の向こう側が見えなければ、そこに希望や解決策があるのだと、勝手に思ってしまうのである。
こっちの世界を棚上げにしてね。
門の向こうには、素晴らしいものがあるのだと、信じたいのであります。
夏目漱石の「門」という題名も、友人を裏切った罪悪感に対する解決策や、本来自分が生まれてきたことの目的を得るために禅の門をたたくのだけれど、結局答えを見つけられない、そんな象徴として名づけられたと思う。
そして、その文章の中に、「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」という1節があって、これはまさに凡の事ではないかと、むかしに読んだ時に思った記憶がある。
この門をくぐったところに答えがある。
そう主人公は考えたのだ。
でも、そこに答えは無い。
だって、そこに答えがある筈だと、門というもので見えない線を引いたのは、自分自身であるから。
画家の佐伯祐三は、日本人なんだけれど、日本人だとは感じない作風で、好きな画家だ。
その佐伯祐三さんが、「絶対売ったりしないように巌に君に頼むよ、あの二枚だけが僕の最高に自信のある作品なんだよ」と友人に頼んだ絵がある。
「扉」と「黄色いレストラン」だ。
(扉)
(黄色いレストラン)
どちらも閉ざされた扉が描かれている。
佐伯祐三さんは、その扉の向こうに何を見ていたのだろうか。
でも、彼にとって、この扉は開けっ放しではダメだったんだろうね。
開けてしまうと、希望がなくなってしまう。
やだ、やだ。
希望がなくちゃ、やだ。
この地獄の門をくぐると、すぐにでも壮絶な地獄が待ているのかと思ったら、ダンテの神曲によると、そうでもなくて。
地獄の門をくぐると、地獄の前庭とでも言うべきところがあって、罪も誉もなく人生を無為に生きた者が、地獄の中に入ることも許されず留め置かれているそうである。
それを知ったとたん、笑ってしまった。
何とも、曖昧な門である。
地獄の門を入ると、何となく地獄的な、地獄じゃないような的なところにでる。
この曖昧な場所なら、少しぐらい居られそうだ。
というか、今まさに凡が暮らしている世界そのものじゃないか。
凡は、もう既にその門をくぐっているのだろうか。
「南無阿弥陀仏。チーン。」
さて、そろそろ行くとしますか。
上野恩寵公園の、大空の下の開けっぴろげな空間に置かれた地獄の門は、その向こうに地獄の世界が広がっているという風には、東京にいるという浮かれた気分の凡には、思えなかったが、タダで、こんなに想像で遊ばせてもらって、得をした気分になって、上野駅に歩いて行った。
そして、歩きながら思った。
「みゆきさんの門」があるのなら、絶対に開けてみたい。
開けて何をするというのでもない。
ただ、みゆきさんが、そこにいてさ。
ただ、それだけでいい。
そんな、門があるのなら、たとえ爆弾で門を破壊しても入りたいよー。
「ドカーン。」ってね。
凡、爆死。
さて、いよいよ、本当の地獄の門をくぐりますか。
善と悪。
天国と地獄。
男と女。
あっちとこっち、、、、などなど。
東京国立博物館を出て、冷たい風に吹かれながら、上野駅に向かって歩いていると、国立西洋美術館があった。
その入り口の前の庭に、数点のロダンの彫刻が置かれている。
タダで見れる。
そうタダなので、見てみることにした。
「地獄の門」
ダンテの神曲をモチーフに製作されたブロンズの扉だ。
ただ、制作しているうちに、神曲色は薄れていったようですが、詳しいことは凡は分らないので、ここではちょっとおいておこう。
とはいうものの、その浮彫は扉全体に地獄の様子を表現していて、美術を知らない凡でさえ、生々しいロダンの想像の地獄の世界を見る物にダイレクトに感じさせる。
扉全体に描かれている地獄の模様を見ている扉の上部に置かれた「考える人」は、何を考えているのだろうね。
ただ単に地獄に堕ちる人を、悲しみでもって見ているのか、その救済方法を考えているのか、考えているだけじゃ何も始まらない。
止まったままだ。
それじゃ、凡と変わらない。
考えるだけの、見ているだけの、ぼく。
ただ、凡の場合は、考えているフリ。
それにしても、地獄の門なんて、名前だけで怖そうだ。
モチーフになった神曲では、地獄の入り口として、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という銘文で有名だそうです。
この門をくぐると地獄。
怖い。
そんな、怖い門を、どうして作ったんだろう。
そんなの作っちゃいやだ。
やだ、やだ。
とはいうものの、門があれば開けてみたいというのは、どうだろう、誰でもが思うのではないだろうか。
凡は絶対に開けてみたい。
全開は、怖いけれど、ちょっとだけ隙間を開けて覗きたい。
覗き趣味、、、、ピーピング凡。
とはいうものの凡は、線を引くという事をしない。
線を引くという事はね、これは、どこまで行ったって終わらない、虚しい行為なんだ。
何かを分け隔てるつもりで引いているのかもしれないけれど、引いた瞬間に、また分け隔てなきゃいけない空間が出来上がる。
1枚の画用紙の右と左を分けるつもりでさ、真ん中で切り裂いてもね、切り裂いたその半分の画用紙にも右と左が出来上がる。
なんど切り裂いても、わけられるもんじゃない。
この門をくぐると地獄だといっても、それじゃ、この扉のこっち側は、天国かっていうと、そうでもないのでありまして。
門のこっち側だって、どこかで、誰かが、どこでも、誰でも、苦しんで生きている。
戦争なんて、地獄そのものじゃないか。
門でもって、線を引いたと安心しても無駄な話だ。
それにね、門の向こう側だってね、線を引いた瞬間に、地獄の中に、天国と地獄が生じるのであります。
地獄の住人にしてみれば、天国のようなところと、地獄のようなところが生まれる。
だから、線を引く行為なんて無駄な話なのである。
すべては、連続体なのであると、凡は思う。
とはいうものの、この線という行為は、人間のこころを安定させるものであるようで、色んな人が、線を引こうと無駄な苦労をしているのであります。
その線の象徴が、門であり扉である。
そして、引かれた線の向こう側が見えなければ、そこに希望や解決策があるのだと、勝手に思ってしまうのである。
こっちの世界を棚上げにしてね。
門の向こうには、素晴らしいものがあるのだと、信じたいのであります。
夏目漱石の「門」という題名も、友人を裏切った罪悪感に対する解決策や、本来自分が生まれてきたことの目的を得るために禅の門をたたくのだけれど、結局答えを見つけられない、そんな象徴として名づけられたと思う。
そして、その文章の中に、「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」という1節があって、これはまさに凡の事ではないかと、むかしに読んだ時に思った記憶がある。
この門をくぐったところに答えがある。
そう主人公は考えたのだ。
でも、そこに答えは無い。
だって、そこに答えがある筈だと、門というもので見えない線を引いたのは、自分自身であるから。
画家の佐伯祐三は、日本人なんだけれど、日本人だとは感じない作風で、好きな画家だ。
その佐伯祐三さんが、「絶対売ったりしないように巌に君に頼むよ、あの二枚だけが僕の最高に自信のある作品なんだよ」と友人に頼んだ絵がある。
「扉」と「黄色いレストラン」だ。
(扉)
(黄色いレストラン)
どちらも閉ざされた扉が描かれている。
佐伯祐三さんは、その扉の向こうに何を見ていたのだろうか。
でも、彼にとって、この扉は開けっ放しではダメだったんだろうね。
開けてしまうと、希望がなくなってしまう。
やだ、やだ。
希望がなくちゃ、やだ。
この地獄の門をくぐると、すぐにでも壮絶な地獄が待ているのかと思ったら、ダンテの神曲によると、そうでもなくて。
地獄の門をくぐると、地獄の前庭とでも言うべきところがあって、罪も誉もなく人生を無為に生きた者が、地獄の中に入ることも許されず留め置かれているそうである。
それを知ったとたん、笑ってしまった。
何とも、曖昧な門である。
地獄の門を入ると、何となく地獄的な、地獄じゃないような的なところにでる。
この曖昧な場所なら、少しぐらい居られそうだ。
というか、今まさに凡が暮らしている世界そのものじゃないか。
凡は、もう既にその門をくぐっているのだろうか。
「南無阿弥陀仏。チーン。」
さて、そろそろ行くとしますか。
上野恩寵公園の、大空の下の開けっぴろげな空間に置かれた地獄の門は、その向こうに地獄の世界が広がっているという風には、東京にいるという浮かれた気分の凡には、思えなかったが、タダで、こんなに想像で遊ばせてもらって、得をした気分になって、上野駅に歩いて行った。
そして、歩きながら思った。
「みゆきさんの門」があるのなら、絶対に開けてみたい。
開けて何をするというのでもない。
ただ、みゆきさんが、そこにいてさ。
ただ、それだけでいい。
そんな、門があるのなら、たとえ爆弾で門を破壊しても入りたいよー。
「ドカーン。」ってね。
凡、爆死。
さて、いよいよ、本当の地獄の門をくぐりますか。
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